山門焼き討ちの後、信長は志賀郡の支配を光秀に委ね、その拠点として坂本城を築城させる。目的は坂本港の管理と延暦寺及び日吉大社の監視である。琵琶湖に面し堀として湖水を取り込んだ水城。宣教師フロイスは安土城に次ぐ名城とたたえている。
閉じる天正4年に築城が始まりわずか3年で天守が完成している。天守の高さ33m、その下に天守台の石垣を加えれば、総高50mに及ぼうとする高層建築であった。この景観を目にした当時の人々の驚愕は計り知れない。天正10年の本能寺の変まで、わずか3年。
閉じる※文章の多くは、大沼芳幸著「信長が見た近江『信長公記』を歩く」(サンライズ出版)から引用しました。